あまりにも贅沢な「武尊縦走行」
井手敏博
(まえせつ)
お正月の二西会で末次栄蔵編集長と出会い、「二回生のHPももっとなんじゃいかんじゃい入れ込んだほうがよかろうもん」ということで、山歩きの文章めいたものを寄稿することにしました。この散文は私の入っている山の会の会報に掲載したものです。山行は2001年6月9日(土)〜10日(日)でいささか古いとは思いますが、なかなか同期の人と登る機会がないので古いものを引っ張り出してきました。文中のT君は東京二期会の重鎮である田代事務局長です。知っている人は言わずもがなですが、武尊は「ほたか」とルビします。
2002年の35周年東京大会の翌日も、オプショナルツアーでお嬢さんやおっさんたちと武蔵御嶽山に登りましたが、これはこれで楽しい思い出となりました。山の話などできたらいいなと思いますので、メールでもいかがですか? idetoshijp@ybb.ne.jp
なぜ武尊か
生まれてこのかた一度も結婚したことのないという、恐るべきラッキーなTという男がいる。先日高校の同期の役員会で会ったところ、酒もあまり進まずに元気なさそうに見えたので、三日後勤務先に電話して山に誘った。
「那須の三斗小屋温泉にでも浸かって、酒でも飲もうぜい」と言ったら、「そりゃいい!」とイチもニもなく賛成した。それで、6月9日は那須湯本から南月山を経て茶臼岳に登り、その日は三斗小屋の露天風呂で月を眺めるか、うまくいけば内湯でネエちゃんの裸を拝んで酒を飲み、翌日は朝日岳、三本槍岳から那須連峰を北上して甲子山に至り、甲子温泉から新白河に出て帰京するというプランを思い浮かべた。
そんな話のさわりをしゃべってから、電話を切って「アッ」と思った。どうもこのごろ加齢に伴う記憶のランダムな欠如が進み、すっかり8日の予定を忘れてしまっていたのである。
「8日は八方園で大学の同窓会があるんだった!」
さてどうしよう? 同窓会に出て酒もロクに飲まないというのは業腹だし、二次会だってやっぱり流れて行っちまうだろうし、となると早朝起きるのはムリが出て来るというものだ。煩悶転々(というほどのものではないが)した結果、「9日の遅立ち」に決めた。どうせプランをつくるのは私、予約の手配も私となれば、変更修正勝手気ままてなものである。
6日に9日10日の両日で変更がないことを確認しあい、天気予報も「まぁ曇り程度だからいいか」ということになった。私はプランを逆コースに変更した。一日目甲子温泉大黒屋に泊まり、翌早朝から那須連峰を南下して全山縦走するのだ。早速大黒屋に電話した。
「四畳半の部屋しかありませんが…」「共同トイレでもいいですか…」「料金はどこも13,000円になってますが…」
これはアカン。あそこは一軒宿とはいえ、阿武隈の源流で新緑はきれいだし、プールはあるし、建物も新館が建ったばかりで人気上昇中といったところなのであろう。
「うーん、オタクはせっかくいいところなんだから、悪い印象もちたくないしね。またにしましょうか」
四畳半にオッサン二人で寝るというのも興ざめな話であるから、これで那須はパァになった。
さてどうしよう? キーワードは遅立ち、10日の一日で登り甲斐のある山、できれば温泉もほしい。ウンウン唸って考えた(わけではない)。そうや、上州武尊があるやないか! 速攻で川場村観光協会に電話したが、相手は役所のことゆえ昼休みにベルは空しく鳴るばかり。夕方近くになってようやく木賊(とくさ)集落の木賊山荘を紹介され、予約を完了することができた。
8日の夜、シロガネーゼとの出会いはなかったが、二次会まで流れてさんざんぱら酒を飲んだのは当然のことであった。
木賊の宿
9日の天候は晴後曇りで蒸し暑い。上野発12時30分の快速『アーバン』とやらに乗る。大宮からTが乗ってくる。私は昨夜の疲れで眠ってしまい、電車は高崎に到着。水上行きの各停に乗り換えて14時55分に沼田に着く。
駅前の関越交通バスの営業所前からケータイで宿に、川場温泉口までの迎えを頼む。
「15時35分のバスに乗るから」と伝えると、宿のオッサンは「運転手に、風間酒店の前で降ろして、と言ってください」という。なんで? と思うが、まぁいいだろう。バスの営業所の中は従業員がのんびりと世間話に興じている。
「小泉さんは構造改革と言っているが、そうなりゃこんなところも閉鎖になるんだろうな」などと思う。
沼田の町は通過しただけで降りるのは初めてだが、今日も見物する時間はない。町の観光案内板を眺める。戦国末期、沼田は信州上田を本拠とする真田氏の支配地だったのだが、上田から沼田までのルートはどこを通ってきたのだろう? 碓氷峠ではあるまいとなれば、浅間の北の原野を突っ切ってきたのだろうか。荒漠とした風景の中を疾駆する騎馬武者を想像してみたりする。沼女とか沼高とかの文字も見える。土岐氏3万5千石、小藩とはいえ城下町だから旧制の中学も高女もあったということか。
川場循環のバスは旧市街を抜け、台地から谷へ下りまた登ることを数回繰り返して川場村に入る。「川場温泉」の声を聞いて、運転手に「風間酒店の前で」と言うと、「あと二つ先です」と答えた。つまりガイドブックはあてにならないということだ。降りる際に、「木賊山荘のオヤジさんはあそこに待ってます」と指で教えてくれた。ご苦労様!
ワゴンに乗って林道を上って木賊の集落を過ぎたところで、渓流の傍らに木賊山荘があった。地面は濡れている。オッサンは「明日はくずれるといってますが、もてばいいですね」という。私は「なぁに、今日と同じようなものでしょう。夕立だけですよ、問題は」とまるで危機感もなく答える。
風呂はぬるぬるしていかにも温泉らしい。露天風呂は河鹿の鳴く渓流に面している。もう新緑は終わって、濃い緑の木立の中からは虫が飛んでくるのはしょうがない。
夕食は鮎の塩焼きやら、山菜の煮たのやらでまずまずといったところ。武尊山登山の〈前進基地〉と思ったが、同宿に山に登りそうな人はいない。百名山とはいっても天気が悪いからこんなものか、と思う。ドライブ旅行のジイさん、年寄り夫婦、家族連れなどである。ジイさんと年寄り夫婦が戦争の話などしている。「私はソロモンに行ってたんですよ」とかなんとか。フエッ、それじゃもう80じゃないか。元気なものだ。
宿で飼っている犬が『松茸取りの名人』で、秋はオッサンと犬でダントツの松茸を採ってくるとの新聞記事が食堂に貼ってあった。ビールと地酒をそれなりに飲んだらすっかり満足して、私は21時30分には寝てしまった。
川場尾根(?)から前武尊
10日の4時にケータイの自動電源ONでめざめ、昨日の夜つくってくれたおにぎりと漬け物の朝飯を布団の上で食べて、トイレに行く。トイレのあと露天風呂にドッと飛び込んだら、これがぬるい。沸かし湯をとめてあるから冷たくなったのだが、この季節で温泉だったからよかったものの、つくづく風呂は飛び込んではいるものではない。
5時前に宿を出発して林道をさかのぼり、途中の「←武尊登山口」の看板から左折して未舗装の狭い道をガタゴト走ると駐車場に着く。避難小屋やトイレもあり、7〜8台の車がとまっている。千葉や神奈川ナンバーもあって、さすがに百名山だ。車の中でもぞもぞ起き出しているのが1台あるが、ほかの車は人気がない。避難小屋の中も誰もいない。
「もう発ったのだろうか、ずいぶん早いな」
5時15分、私たちも歩き始めた。少し入るとキャンプサイトがあって、そこからダラダラ登りをしばらく行くと、いよいよ川場尾根への急登だ。プロトレックの数字がみるみる高度を稼いでいく。駐車場が1215m、2時間も経たずに1800mとなる。その代償に私はあえぐ。Tはステッキももたず猿(ましら)のようにホイホイと先行していく。私はあえぎつつ一歩一歩を踏みしめる。右から武尊スキー場の道を合し、しばらくするとスキーリフトが右手目の高さに現れる。「なんだこれ?」下を見るとそのリフトの起点まで車の入れる道が来ている。徒労感のようなものをなんとか我慢して、もうワンピッチ。2040mの前武尊のピークにポンと出る。
ブロンズの日本武尊は立派なものでツヤツヤしている。台石にある由来を読むと、新しいものではなく嘉永年間に村人が運びあげたものという。ただ平成3年修復とあるから、かざす小手などはそのときのものだろう。ヤマトタケルの足元でたばこをくゆらして休憩だ。時計を見ると8時になろうとしている。コースタイムを短縮しているようだ。天気も回復してきた。陽の光が暑い。UVスクリーンを塗る。
前方には剣が峰がドンとそびえている。その形は覆い被さる食パンのようだ。食パンの右半分は崩落していて耳がなく、痛々しいばかりに凄絶である。その右にはまた台形状の中の岳が雪渓をあちこちに現して山なみをひいている。
Tはヤブ蚊がうるさくて往生している。不思議にヤブ蚊は私には近寄ってこない。「俺はさ、たばこで毒をまき散らかしているから近づかないんだよ。でもほんまもんの蚊じゃないから刺さないだろう?」と気休めを言ってやる。
地図を広げる。どうもヘンだ。旭小屋から川場尾根を登ってきたのに、なんでリフトなんかあるのだ? それで気づいた。あの駐車場はキャンプ場のものなのだ。林道が奥まで入って、その分距離が短縮されたことになる。コースタイムの短縮なんてあるわけないのよ! 蟻の戸渡りと呼ばれる行場を経験できなくて残念だ。
「それにしてもお客さん少ないな」。3時間で降りてくるオッサン2人しか会っていない。「静かでいいところやんか。こんな百名山もあるんやな」と語り合った。そんなことがありえないことは、すぐに思い知らされた。
雑踏の沖武尊
前武尊から稜線を下り、剣が峰にとりつく。崩落のため岩峰を乗越すルートは通行禁止となり、道は右山腹を登り気味に巻く。笹藪の刈り払いが十分でなく歩きづらい道である。岩稜に出て岩を登り、馬の背のような稜線をたどって鞍部に下り、また登り返して2103mの家の串のピークにつく。
ここで武尊牧場からの道を合わせる中の岳ジャンクション、目指す沖武尊までの頂稜を見通すことができる。なんと! いる、いる。わんわん登っている。ジャンクションの右側から武尊牧場口の道が中の岳を鉢巻きするように合わさっている。左側はまたトラバースして武尊山頂に続く。このコースにゾロゾロとお客さんが数珠つなぎである。「しゃあない、百名山やからなぁ」。意を決して家の串を下ってジャンクションに至り、休憩しているジイさんバアさんたちを跨ぐようにして前進する。
中の岳は左の山腹を巻いていくが、途中にこの縦走行唯一の水場である笹清水がある。湧いている水の量は少ないが、この水は推奨ものである。飲むとほのかに甘さが感じられる。糖質が入っているわけではないが、まさに甘露と呼ぶにふさわしい。実際、下からもってきた木賊山荘の湧き水や、帰途上毛高原駅にあるトンネルから引いてきた大清水の水よりも格段に美味である。(もう一度汲んできて飲みたいほどなのだ!)
笹清水から先は雪渓の上を歩く。ここはたぶん三ツ池の上なのであろう。雪は腐っていて軽アイゼンをつけるまでのことはないが歩きづらい。雪渓を終えて最後の急登を越すと、また日本武尊の像があり、その裏とおぼしき高みが沖武尊、すなわち2158m武尊山のピークである。
10時10分三角点を撫でて、小広い頂上の隅に座ってお湯を沸かしてラーメンを食べ、コーヒーをたてる。陽は時折射すが薄曇り、北方の尾瀬、至仏山方面はガスって見えない。たどってきた剣が峰・中の岳は左手に、右手には剣が峰山・武尊高原の稜線が続く。
ここでもヤブ蚊はつきまとう。Tが二の腕にできた赤い湿疹のようなものを掻きながら、「ヤブ蚊は刺さないといったじゃないか」と文句を言う。「バカヤロ、刺さない蚊なんているわけないだろう。なんのため50何年も生きてきたんだよ。ほんまの蚊と違ってプチプチ刺さないといったんだよ。それともなにか? お前は血糖値が高いから蚊が蜜代わりに吸っているのかもな」とからかうと、「そうか、蚊も甘い血が分かるんだ!」と苦笑いした。「下りは3時間半だから、11時に出て3時には着くだろう。打ち上げは大宮ってとこかな」、「楽勝だな」と笑いあった。そして「夕立さえなきゃいいけど」と薄曇りの空を眺めた。
花盛りの稜線
山頂から北へ縦走を継続する。藤原への稜線である。ハイマツの茂った細い尾根にはシャクナゲのピンクの花がここかしこに咲いている。シャクナゲは登山口から2時間ほど登ったあたりから見えはじめ、頂稜付近ではミネザクラも満開を誇っている。どちらも花期が1週間ほどの短い花だから、私たちの日頃の行いの成果であった。
いくつかアップダウンを繰り返して、行者ころげと称される急峻な岸壁を下る。鎖はついていない。滑っても命に別状はないが、手やズボンは泥まみれになる。さっそくTが滑って濡れた岩場でべっとり泥をつけた。それが終わっていくつかの雪渓をわたり、雪解け水の流れる道をベチャベチャと歩く。たどり着いたコルに「避難小屋・手小屋沢林道終点→」という表示があって、右に下るとドラム缶を大きくした避難小屋がある。しかしそこから先の道は試行錯誤したが発見できない。やむなくまた稜線に戻る。
さらに尾根通しに歩くと、左は「武尊神社」直進は「上ノ原山の家」である。左の道が整備されているようだが、ガイドブックは直進だ。ここから道はずっと登りに変わる。道は明瞭だが落ち葉が分厚く踏みあとは定かでない。こっちはもうメインでなくなったか? 気がつくとこちらに降りてきていたほかのお客さんの姿は消えてしまった。どうやら武尊神社の方に降りていったらしい。
岩場で滑ったあたりを契機としてTの足が遅くなってきた。振り返って待つと、どうやら足を痛めているようだ。登りで私を見捨ててホイホイ行ったバチなのだが、そうばっかり思っていられなくなるほど相当にやられてきたらしい。
避難小屋の分岐の前あたりからゴロゴロしていた遠雷が、いっこうに止む気配がない。雷は面倒だとあえぎながら稜線を急いだ。あたりが暗くなってきた。やっと名倉沢への下降ポイントに着いて、岩の間を流れる水の中を下っていく。急な下りとともにTの膝はますます痛んできた。
降らなければいいがと思っていたが、周囲が暗闇のようになってすぐ、パラパラと大粒の雨が落ちてきた。慌ててザックを開けて雨衣とザックカバーを引っ張り出して装着する。雨衣のズボンをはく暇もない。急な細い下り路の最中だ。
大粒の雨に打たれて歩き始める。暗くて路が判然としない。Tに前を歩かせて二人で確認しながら歩く。数分もすると、ポンと白いものが足もとを転がった。ポンポンポン、パシッパシッ、ふえっ! 雹である。しかもパチンコ玉を二まわりほど大きくした雹である。「危ない! 動かないで避難しなきゃ!」。慌てて大木の幹に体を寄せる。ピカッ、ドシーン! おおっ、そうや、雷だ、木の下は危険じゃん。今度は岩の下にもぐり込む。岩の上に茂る植物の葉はまるで無力だ。バシビシと雹が後頭部を打つ。手の皮に当たる痛さにオロオロする。
「これ以上大きくなったらヤバイぞ」と思いながらうずくまるしかない。ズボンはもうじゅく濡れである。稲妻は暗闇を裂き、雷はガンガン落ちる。正直、どないなるかと思った。
やがて雹は収まってきた。雨は依然激しいが、歩き出すことにした。道にいっぱいの雹が白くザクザクとして、足もとは明るくなったようだ。今度は路が沢の増水に浸かりだして分からなくなる。沢沿いの平坦な路は水をかぶって、路側の傾斜地をおそるおそるたどって歩く。7〜8回の渡渉は足探りで岩を求める。まさに這々の体だ。
やっと草むしてはいるが林道らしきものに出た。Tの太股は痙攣している。ステッキを渡して、「なんとか生き延びたようだな」と二人で言い合う。ただし雨はまだ激しいままである。もう靴の中もザックも全身濡れっぱなしとなった。
宝台樹スキー場の果てに到着した。しまっているどっかの寮の玄関でやっと雨宿りができた。雨が小降りになってきた。スキー場の真ん中を通る広い舗装道路の正面に、谷川岳が雪渓をフレアスカートのように広げて凝然とそびえている。無人のレストハウス、何もない駐車場のただ中を、藤原にある久保バス停まで歩いた。バス停に着いたのは16時20分だった。
16時43分のバスで上毛高原駅に行く。バスの運転手から、「武尊牧場にゴンドラができたから、いま2時間半くらいで登れるようになったからね、武尊は。日光白根も丸沼からゴンドラができたらしいよ」と聞かされた。
「情報は最新のものに限るね」とTが言う。「そうだな」と私は答えた。
ガイドブックにあるような時代錯誤の縦走をしたのは、私たちだけだったのだろう。おかげで山の魅力をたっぷり味わったことになった。
18時7分の『あさひ』で大宮に至り打ち上げをした。打ち上げをやった店は、駅から階段を使わずにエレベーターだけで行ける店とした。そこで幸運な男Tはあまり酒を飲まないことに気づいた。いままで一緒に飲んだ際に、私は自分ばっかり飲み続けてあいてがどのくらい飲んでいたか気がつかなかったのだ。
打ち上げが終わった。Tは歩けないからタクシーで帰るという。
「もうやせ我慢せずにステッキ買おうな!」と言って、私は大宮駅に急いだ。